ある雨の日「こんな老いぼれの絵を描いて、何になる」しわがれた声で老人が言った。 その声は、怒っているようでもあり、投げやりなようでもあったが、何しろつぶやくような大きさだったので、すぐに窓を打つ雨つぶの音にかき消されてしまった。 僕は絵の具を出す手を止めて老人の顔を見たが、その表情からは何も読み取ることができなかった。どんな言葉を返していいのか分からないので、仕方なく手元に視線を戻した。 訪れる静寂。 静寂、というのは嘘になる。外には朝から雨が降っているし、窓からは海が見えるから、四六時中波の音が絶えることはない。 視界の端っこで老人を観察しながら絵の具をまぜる。相変わらず表情は動かない。再び雨の音、波の音。 絵の具を筆につけながら、目の前のキャンバスに集中しようとした。 不意に、三日前、老人に絵のモデルを頼みに行った時のことが目の前に浮かんできた。 強い日差し、帰港して荷揚げするたくさんの漁師たち、強い磯の香り。 大漁だったらしく、上機嫌に笑っている大男たちの向こうがわで、無言のまま網をかたしていたのが彼だった。 一つ一つ無駄ない確実な動きで、大きな網をたばねていく姿に、何ともいえない存在感を感じた。 「あのおじいさんはなんて名前ですか」 思わず、横を通った男にたずねていた。 「あ、サルメロンの爺ぃさんか。悪いことは言わねぇからやめとけ」 それ以上何も言わずに男は行ってしまった。 三日間、港に通いつめて、モデルの交渉をした。何の返事もしてくれなかった。それどころか、一言も言葉を発しなかった。 今朝、今日も交渉に行こうかと思ったら雨だった。雨なら漁はない。彼がどこに住んでいるのか知らない。 不意にドアがノックされた。 老人が立っていた。 |